謀神光臨:厳島の戦い(毛利 vs 陶)

広島県廿日市 1555年
安芸国(広島県西部)で、国人領主に過ぎなかった毛利家を中国地方の覇者にまで押し上げたのが毛利元就、その人である。厳島の戦いでは、主君・大内義隆に謀反を起こして一大勢力となった陶晴賢を厳島におびき出し、少数精鋭で追い込む。陶は、水軍500艘、兵の数2万以上で厳島へ。一方、罠を仕掛けた毛利は水軍120艘、兵の数4000。数で圧倒していたはずの陶軍だったが、戦闘開始直前で援軍に加わった瀬戸内の海賊衆・村上水軍と、猛烈な暴風雨を衝いて上陸した奇襲攻撃により、水路も断たれて島の西奥へと詰め寄られ、陶晴賢は自刃した。この戦だけで、陶軍は4700名もの死傷者を出したとされる。戦後毛利は、血に染まった厳島神社の社殿を洗い清めさせ、厳島内に血が染み込んだ土も削り去って、神域での血の穢れの禁忌を徹底した。
マップのみどころ 陶晴賢(水色)VS 毛利元就(紫)
圧倒的な兵数を誇る陶軍に、少ない兵で野戦を繰り返したら勝てない。厳島から北東に位置する毛利の城が攻め込まれるのも、時間の問題であった。何としても陸路戦は避けたいと、島への追い込み作戦を狙った毛利。噂話を仕込んで陶晴賢を厳島へと誘いこむ作戦へ出た。噂を見抜いた陶の家臣の進言を退け、毛利の噂話を盲信し、2万もの大群を連れて島へ渡ってしまったのが運の尽き。
裏ドラマ
毛利元就は、3人息子の下支えがあって名をなしたとも言える。この厳島の戦では、次男・吉川元春が側につき、三男・小早川隆景が後方援護。二人の実子が活躍した。一方、嫡男(正室の長男)の隆元は、陶の主君であった大内家の人質となっていたため、その後内政手腕によって、父の勢力拡大を戦場の外側から盤石なものにしていった。