霧の川中島・第四次合戦

長野県長野市 1561年
甲斐の虎・信玄VS越後の龍・謙信。決戦は計5回、12年に及んだとされる。領地争いを巡る両者のライバル関係は歴史上あまりに有名だ。中でも、両軍合わせて約2万7千余名の死傷者を出したという狂気の大激戦、霧の川中島・第四次合戦の布陣図を立体化してみた。
マップのみどころ 上杉謙信(青)VS 武田信玄(赤)
霧霧が立ち込める川中島に、布陣が敷かれるまでの約一ヶ月の進撃ルートを現代の道路地図を白抜きにして作図し合成。上杉は部隊を放射状に配置し本陣の周りを回りながら攻撃する「車懸りの陣」を、武田は本陣を重心に鶴が両翼を広げたように敵を囲んで攻撃する「鶴翼の陣」で戦ったとされる。注目すべきは、軍神・上杉謙信の移動距離である。善光寺(地図の中央上"卍")に着陣後、右回りで山沿いを南下〜妻女山〜川中島決戦へと、右回りに山の中を抜けて善光寺へと戻っているが、謙信はこの戦だけでも概算85km以上を駆け抜けていたことになる。
裏ドラマ
信濃侵攻により支配地域を広げた武田信玄。北部を攻めて信濃統一を達成するとその先には越後を見据える。それを上杉謙信(長尾景虎)は見過ごさなかった。この合戦の20年前...。信玄は父・信虎を駿河に追放、21歳で家督を継承する。(背景には、重臣が抱いた信虎への不満に信玄が答えたという説がある)継承後、信玄の勢いは留まらず、1542年以降に信濃を攻め、義弟の諏訪頼重、頼重の一族に当たる高遠頼継を倒し、伊那郡を制圧。佐久郡、小県郡、筑摩郡を順次攻略。信玄の猛攻に恐れをなした北信濃の諸将が、彼の武将に助けを求めた。それが、上杉謙信だった。こうして武田と上杉は、其々の正義に則って、焦げ付くような長い戦いの中に身を投じていく。一方は家臣を思う将軍、もう一方は国を思う将軍、見ようによってはその両雄の正面衝突ともいえる戦である。