長篠の戦い(織田 vs 武田)

愛知県新城市 1575年
屈強な騎馬隊 VS 鉄砲隊の布陣図。先の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄に完敗していた織田・徳川軍。その後、信玄は志半ばで病に倒れて迎えたこの合戦、息子の武田勝頼は徳川領に攻め入ることを止めなかった。三河長篠で再び武田軍と織田・徳川軍は交戦。結果は、最強と謳われた武田軍の騎馬隊を織田軍の鉄砲隊が一蹴。織田・徳川軍が勝利を納めた。名だたる武将を失った武田軍は、この戦を境に衰退していく。
マップのみどころ 織田・徳川軍(橙)VS 武田軍(紫)
霧布陣図は、連吾川をまっすぐにはさんで向かい合う。日本最強を謳う騎馬隊でも、足場の悪い水場は流石に不利だ。この立地条件にやられたと言える。使用した国土地理院の地図には、実際に「織田信長戦地本陣」「家康物見塚」など、分かり易い地名が記載されて残っている。
裏ドラマ
誇り高き伝令、徳川の家臣・「鳥居強右衛門勝商」をご存知だろうか?武田軍に追い詰められ落城寸前の長篠城から、援軍の要請にその男は徳川家目指して飛び出した。まもなく、織田軍が援軍に来ることを知り、喜び勇んで知らせを持ち帰ろうとした道中、勝商は運悪く武田軍に捕まってしまう。捕虜になった勝商は、磔となって長篠城前に晒され、「援軍は来ないと城に向かって叫べ」と嘘をつくよう脅された。しかし...その脅しに屈せず「援軍は来るぞ!」と叫び、武田軍に槍で突き殺される。直後、武田勝頼の背後には、織田軍が着陣・・・。武田軍は一掃されることとなる。さて、磔になっても忠義を見せた勝商に深い感銘を受けたのが、敵の武田軍・落合佐平次。佐平次は、最後まで死を恐れず敵にも屈しなかった勝商の武士道を称え、磔の勝商像を描いた旗を掲げて、戦場に向かうようになった。